四一七年、夏。ハンナ・ミナキは十七歳だった。
その頃、ハンナの祖母はサンセコイアにいた。ハンナは祖母の家に身を寄せ、エミリア・リード先生の私塾【ベルガモット・ルーフ】にかよっていた。
ルーフは、街の高校とは全然ちがう。
かよっている子どもは、十四人しかいない。それでいて年齢は六歳から十九歳まで、ズラリとそろっている。おとなが決めた時間割はない。自身からあふれ出る熱意にしたがって学問に没頭してもいいし、ほかの子どもと水風船を投げあってもいい。人生に疲れたらチェステーブルのまえにすわって、魚のような目でキングをながめていてもいい。
そんなわけで、ハンナは魚のような目でキングをながめていた。
「ハンナ、なにか飲まない?あなたの好きなミントティーでもいいし、いい感じに冷えたミルクもあるよ」
エミリア先生がやってきて、ハンナを威圧しないようにななめ前にすわった。
時刻は、午後三時。どの子もみんな、お茶の時間だ。チェステーブルとテーブルサッカーのある休憩室にはほどほどに日差しが差し込み、扇風機がまわっていて居心地がよかった。
「ありがとう、レモネードがいいって言ったら怒る?」
「怒らないわよ。どうぞ冷蔵庫から持っていって。気分がふさぐの?」
「もうすぐおとなになると思うと、人生の墓場に片足をつっこんだような気分になるだけ。あたしの心はちっちゃな子どものままで、ここじゃないどこかをとびまわってるのに」
「どこを……?」
「森」
冷蔵庫からレモネードをとりだし、ハンナはぶっきらぼうに言った。
エミリア先生のグリーンの瞳が淡い色になり、その目が天井の蛍光灯のあたりを見るともなく見た。先生の心も、ここじゃないどこかを彷徨いはじめている。蛍光灯はよごれていて、はしのほうに黒いつぶつぶが封じこめられている。
「森。ハンナがサンセコイアにくる前、おかあさんと旅した森だね」
先生は、夢見るように言った。
「うん」
幻影がはじまる。
蛍光灯のかたちがほどけて、組み直される。もはや蛍光灯は存在せず、天井も壁も、どこにもない。黒々とした、背のたかい森のかげが見えてくる。ハンナの森だ。ハンナと……だれの?
「ハンナの心には、森がある。いまハンナが、現実には森にいないとしてもね。それはおとなになってもあなたを支えるものだと、わたしは思うな」
先生の意見は、ハンナをベルガモット・ルーフに引きもどした。
「そうかもしれないけど、あたしが子ども時代を脱ぎ棄ててしまうことは変わらないでしょ」
「まあね。でも、たぶんおとなって、ハンナが思ってるより自由よ。行きたいところに行けるし、好きなものを買える。ほかのおとなに【あれをしろ、これをしろ】と指図されることもないしね」
「人になにを言われるかなんて気にしないよ。でも、木登りも窓くぐりも、おとなになったらできない。死神がタブレットを抱いて迎えにくるその日まで、義務をはたすだけの毎日で」
「あら、意外と保守的なのね。おやりになったらいいじゃないの!義務はほどほどにして、お気に入りの大樹に登るべきだよ。わたしは先週、長靴を脱いで、はだしで水たまりをパシャパシャしたわ」
ハンナは毒気を抜かれて、エミリア先生を見た。
先生はすまし顔で、メイプルシロップを入れたコーヒーを飲んでいる。
なるほど。
ベルガモット・ルーフで先生と話す時間は、そんなに悪いものではない。
ハンナが感じたところによれば、エミリア先生はハンナが実際なにを憂鬱に思っているか、かなり正確に理解している。
断じて口に出すつもりはないが、ハンナがいちばんうんざりしているのは「おとなになったら、実家を継がなければならない」ということだった。
ハンナの母親は「世界を救い、暗黒時代を終わらせた英雄の妹」という、冒険物語みたいな女性の血を引いている。この四一七年の現代社会においても、母は英雄の子孫たる一族を導く【筆頭】の名を背負っている。
ハンナは母親の役目を継ぎ、各都市に散らばる一族の者たちを束ねる立場にのぼらねばならない。灯台に火をともし、一生義務をはたし続けなければならないという事実が、十七歳のハンナの心をこわばらせている。
ああ、ご先祖さま。
どうして世界なんか救って、有名人になってしまったのだ。
「土曜日にヘンフォードの実家に帰ったとき、四つの頃に遊んでたブランコにすわってみたんだけど」
ハンナはレモネードのコップを両手で包むようにして、一見関係のない話をはじめた。
「すわったら、おしりが抜けなくなりそうだったの。四つの頃のブランコは、いまのあたしには小さすぎた。おしりを載せたとき、あたしの身体が重すぎてブランコがしなるのを感じた。おとなに近づくたびに、あたしのためのものがひとつずつ減っていくんだと思ったら、悲しくなった」
「四つのハンナには、四つのハンナのためのブランコがある。十七歳のハンナには、十七歳のハンナのためのものがあるのよ。いくつになっても、その歳のハンナのためのものが、必ず用意されているわ」
「…………」
「ただ、」
エミリア先生はクッキーを噛み砕きながら、苦虫を噛みつぶしているような顔をした。
「ただ、年を取ることへの動揺は、いくつになってもつきまとうと思う。わたしは五十一歳になったけど、先週鏡を覗いて愕然としたわ。しわが増えて、五十一歳のときの伯母みたいだった。こんちくしょう、このままではヨボヨボのおばあさんになってしまう、って思ったわ」
ときどき言葉が悪くなるのはエミリア先生の特徴で、その特徴はかえって子どもたちの支持を集めている。
「そういう気分になったとき、先生はどうするの」
ハンナは重要な質問をした。
「だから長靴を脱いで、はだしで水たまりをパシャパシャしたの。夕立に打たれながらそうしていると、五十一歳のわたしの胸にもちっちゃな子どもの魂が燃えている、と感じられた。楽しかったわ。まだやれる、と闘志が湧いてくるのよ」
先生を見つめるハンナの瞳が、みずから情熱の火をつけて輝きはじめた。
ハンナはふかふかのソファから立ちあがり、いますぐ駆けだしたくてたまらないというように、窓のそとを見た。裏庭のひまわり畑が、つよい風を受けてざわめいている。
「先生、お庭に行ってきてもいい?風を受けて立ちたいの」
「いいわよ」
ハンナは残りのレモネードを飲み干して、大急ぎでコップを洗いに行った。
エミリア先生と話していると、からまっていたひもがスルリとほどけて、いつのまにかそのへんにほうり出されていることがある。「最初から、からまってなんかいませんでしたよ」みたいな顔をして。それは、手品師のしごとに似ている。
休憩室を出ていくとき、ハンナは言いたいことは言っておこうと思って、振り返った。
「ねえ先生。先生はいつだって、あたしをいいほうに、いいほうに引き上げようとするね。感謝してるけど、でもそれ、いらないときもあるかもしれない。あたしには、沈んだ気持ちを味わっていたいときだってあるからさ。ちょっと先生の悪いクセだよ」
エミリア先生は【痛いところをつかれた】という顔をして、苦笑した。
「ごめん、先生と呼ばれていることの、悪い作用だね。それってほんとうにつまらないクセで、わたしはときどき、ハンナやみんなを教えているような気になることがある。でも実のところ、ハンナやみんながわたしに教えてくれることのほうが、ずっと多いんだよ」
ハンナは、にやりと笑った。先生と気持ちが通じたことが感じられる。十七歳の自分に満足して、ハンナは今度こそ庭にとびだしていった。
My Pose
Thanks to all CC creators!!
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